ブラウンを初め、カトリック教会の歴史や権威に反発を覚える人々は、聖書がカトリック教会の都合のいいように書き替えられたもので、そこに書かれている内容は時の権力者たちの立場を擁護するものなのだから信頼に値するものであるはずがないと考えています。
これはカトリック教会の歴史を見たとき、ごく自然な反応とでも言えるでしょうね。
ローマカトリック教会の歴史の中で繰り返された「神の名」による侵略や、魔女狩りなど、血なまぐさい歴史と不条理を見れば、そう感じるのはやむを得ないでしょう。実際私自身、そのように考えていましたから。
ところが、これはカトリック教会、あるいはヨーロッパ的キリスト教が、聖書の唯一の代弁者なのだという権力思想がもたらした結果です。
カトリック教会だけが唯一普遍的な、地上における神の代弁者なのだという発想は、当然のことながら、キリスト教がローマ国教として定められ、政治的権力と癒着したことから発したものです。
そしてヨーロッパ化されたキリスト教は、侵略戦争の道具として、他国を支配下におさめるために大いに用いられてきました。
その結果、カトリック教会の歴史から生まれた西洋化されたキリスト教こそ、聖書的なのであるかと思わせる伝統が出来上がってしまったのです。
しかし聖書を読めば、実は、私たちが今知っているキリスト教と言われるものは、聖書とはまるで違う様相を呈しているものであることがわかります。
それは、言ってみれば、ローマ帝国の歴史的遺産とでもいいましょうか、つまりは、ヨーロッパの歴史的遺産なのです。
ですから、建築様式や造形など、芸術的な価値や、歴史的な価値は存在しますが、だからと言って、それが聖書を代弁しているのではありません。
これは事実であって、私は信仰の問題を議論しようとしているのではありません。
キリスト教=聖書ではない
実は、キリスト教=(イコール)聖書ではないのです。なぜなら、私たちがキリスト教的だと感じているものの多くは、聖書の中には存在していないからです。
たとえば、十字架のあるとんがり屋根の教会堂。ステンドグラス、イコン、まばゆい装束に身を包んだ祭司。パイプオルガン、聖人など、言い出したらきりがありません。
もっと言えば、カトリック信者の方々には敬意を表しつつも、あえて言うなら、ローマ教皇という立場そのものが、聖書にはまったく登場しないものであるのです。
もちろん、監督者や牧師、執事のような立場は聖書にも登場しますし、人の集まるところ、そこには組織が存在しますから、人の集まりが保たれるための秩序は存在しています。
けれどもローマ教皇というのは、あくまでも、ローマカトリック教会の作り出したものであって聖書の中には存在しません。
(詳しくはコラム「キリストがキリスト教の創設者?」を参照)
私たち日本人がイメージするキリスト教というと、ほとんど決まって、レオナルドダビンチの「最後の晩餐」や、ヨーロッパ的な印象の強いものでしょう。
最後の晩餐の絵にしても、あれは中世ヨーロッパの芸術であって、あの場面はまるで聖書的ではありませんよ。そもそも、古代イスラエルの人々はテーブルについて食事をしなかったのですから。地面に座り車座になって食事をしたのです。
ですから、歴史の中でヨーロッパ化してしまったキリスト教は、実は聖書を正しく代弁していないというのが事実なのです。私はカトリック教会を批判している者でもなければ、喧嘩をうっているのでもありません。
キリスト教への反発は大いに結構
ところが、多くの人々は、カトリック教会に反発すること=聖書への反発となってしまうのです。これはとても悲しい現実ですね。
たとえば、芸術的センスの問題としてヨーロッパ的なものよりも、アジア的なものの方が好みだという人は、自動的に聖書から遠ざかってしまう傾向があります。
聖書は深淵な書物であるが故に、多くの誤解をも生み出していますが、その多くは、カトリック教会の歴史やヨーロッパや白人世界の侵略の歴史に対する疑問や反発に端を発しているものが多いというが本当のところではないでしょうか?
そういう意味で言うなら、そこにある不条理に反発を持つのは当然のことでもありますし、世界で唯一の被爆国である日本という国にすんでいる私たちは、欧米的な理屈の押しつけに対して、拒否感を抱いている側面もあると思います。
ですから、私はキリスト教に対する反発を抱くのは大いに結構なことだと思いますよ。
ただ、大事なのは、もう一度繰り返しますが、キリスト教的なものへの反発は、必ずしも聖書への反発とはならないということなのです。
これを読んでくださっている読者の中には、そのことが今イチわからない、という方もいるでしょうね。
このコラムのシリーズ「キリスト教を信じるな!」では、そのことについて少し触れてみます。
最後にもう一度繰り返しますよ。
「キリスト教は聖書を代弁していない」のです。
さらに言えば「聖書はキリスト教の教典ではない」のです。
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