聖なるセックスの波
「女性と通じることで、男性は絶頂の瞬間を迎え、頭が空白になったその刹那に神を見ることができるんだ」ダ・ヴィンチ・コードより
ダン・ブラウンの小説ダ・ヴィンチ・コードは、ユダヤ教とキリスト教共通の伝統が女神崇拝と性的神秘主義を禁止したと主張しているが、ある意味では歴史的な事実と言える。
使徒パウロが1世紀に宣教旅行に乗り出したとき、多くの西洋の異教の神殿は娼婦であふれていた。
たとえば、あるときのコリントのアフロディテ女神の神殿は、千人もの娼婦を抱えていた。神殿娼婦たちは、お参りに訪れる男性の性的快楽の道具であり、肉欲的で官能的な淫習は女神の名のもとに執り行われていたのだ。
初代クリスチャンたちは、これらの淫行に対して、聖なる神を礼拝する行為とは全く関係ないものであることを宣言し、夫婦間における性行為の遵守を教え、不倫を推奨する古代社会の習慣に戦いを挑んだのだ。
宗教的なセックスを復活させる津波
今日、多くの西洋の都市の赤線地帯は、売春をもう一度、社会的、経済的、政治的にまともな職業としてでなくとも、せめて許容してほしいと表明している。もちろんそこには、キリスト教が除去した類いの「宗教的義務」はない。
しかし、何十年もの間、タントラ教、女神の霊やサタン教会のような宗教運動は、結婚外セックスを是認し続けてきた。シャーリー・マックレーンやニューエージ思想に傾倒している人々は、結婚外でのセックスを「素晴らしいことだ」と述べている。
今、ブラウンの小説とその映画化は、このような性的無秩序の動きを大きな津波現象にする潜在性を持っている。
『聖なるセックス』の儀式を知らない人たちは、この小説が「最後の晩餐」がセックスの儀式だと主張している意味がわからないかもしれない。
彼らは、イエスが弟子たちに差し出した杯「聖杯」は、マグダラのマリアの子宮だった主張している。
タントラ教の儀式は「子宮の礼拝」と呼ばれている。タントラ教は女性の体液をアムリタ、すなわち「女神のネクター(癒しの万能薬/若さの泉)と呼ぶ。
中核にいるタントラ教徒は(アメリカでも)その癒しの力を求めて月経血を飲む。
その血が「知識を与えてくれる」と信じているのだ。処女の最初の月経血はすべての魔法の飲み物の中でもっとも切望されるものだと言われている。
神秘主義の迷走
陰陽説を信奉することは男と女、善と悪、光と闇、真理と虚偽の対等と調和を信奉することだ。そこには究極的な救いや悪に対する善の勝利などが入り込む余地はない。
それが、この小説の最後のところで、読者が本当の悪人は誰なのかについて混乱する理由だ。
この小説は“悪事”と“真実”の概念そのものを覆し、善と悪、堕落と高潔に関する西洋の伝統的な道徳の明瞭さを破壊している。ブラウンは時々、クンダリニー・ヨガから引用して、すべての人間は男女両性だと仮定することによって二元論の問題を解決しようとしている。
この哲学の古典版は女性エネルギーは人の背柱の基部に蛇のようにとぐろをまいていて、男性エネルギーは頭の頂部にあるとしている。神秘体験は人の女性エネルギーを秘密のテクニックによって目覚めさせることにあり、それはしばしば、教師〜セックスの相手〜の助けによって行われる。
エネルギーが上に昇ってさまざまなチャクラ(人体内にあるといわれるスポット)を通過するとき、ヨギ(修行者)は多くの心霊体験をする。ヨギは女性エネルギーが男性エネルギーに溶け込むとき自分の神性や完全性を悟るといわれる。このとき人は男でも女でもなく中性の、完全な、神になると言うのだ。
この哲学は男女の二元論ばかりでなく善悪の二元論をも否定している。その哲学は我々が二元論を認識することは理性の病気だと言っている。現実は一つ、善悪をも含めてすべての二元論の認識は幻想だというのだ。
19世紀、イギリスの統治下のインドではタントラ教は地下にもぐらなければならなかった。なぜなら善悪を超越するためにタントラ教徒は誘拐、レイプ、殺人を含めて悪を信奉しなければならなかったのだから。
自分の完全性を悟ったヨギ(男も女も)は結婚を放棄する、なぜなら結婚というものは人が有限であること(私は男で女ではない、またはその逆)を前提にしているわけだから、私は妻(または夫)が必要だと考える訳である。
それとは対照的にタントラ教ではヨギは異性愛者の相手も同性愛者の相手も単なる梯子と(又は、修行の一環と)して使うだけだ。人は1度そのゴール(神性、完全性)に到達すれば、その梯子(相手)を捨てなければならない。
プラトンとパウロ
プラトンは、彼の理想「共和国」のなかで、支配守護者は子どもや妻たちの責任を負わされるべきではないと薦めている。彼らは結婚するべきでないが共同の妻たちを持っていた。
妻と子どもたちに安全保障をしないなら、どのようにして自分を愛してくれる女性を得ることができるのか?愛はプラトンの関心事ではなく、女性にも子供にも関心がなかった。彼はユートピアを建設することに興味があり、その結果としてでっちあげや殺人を正当化した。
ちょうどナチスやマルクス主義者が行ったように。プラトンは最高の女たちが優秀な民族を産むために最高の男たちとセックスするように操るために、哲学者たちに神聖な儀式や巧妙な神話や詩を創作するように依頼した。子どもたちは、最高の教育を確実にするため専門家の下に置いた。
両親が自分の子供を知ることさえ必要ではなかった。そしてユートピアはすべての劣った子どもたちを捨てることを要求した。
パウロが伝えたキリストの福音が、ローマ帝国を勝ち取った理由の一つとして、女神崇拝の風習が女性を不安定な立場に置いていたということがあげられるだろう。女神崇拝の異教文化のもと、宗教的に認可されていた性的乱交は、異教徒の女性を、自分の家の中においてさえ、地位も尊厳もない奴隷にしていった。
そのことが中絶や嬰児殺しにつながっていた。不安定な立場に追いやられていた女性たちはパウロの説教に心を向けた。
聖書が男性女性のどちらの性的乱交をも非難していたからだ。聖書は父親であることを敬虔な徳、また霊的祝福として評価している。また、男も女もみな神の前では優劣はないことを教えたからだ。結果的に異教徒の人口はクリスチャンの人口に比べて減少していった。
現代の西洋は、荒廃したローマ帝国(その特徴は安易な姦淫、離婚、中絶)に似てきている。我々同世代の病んでいる「良心」は悔い改めを求めないで、むしろそのライフスタイルを正当化してくれる宗教によって得られる安逸を喜んで買う。
ほとんどの男性は、結婚や子どもたちのような面倒なことなしに、セックスと悟りを与えてくれるような女性がいたら女神とみなして大満足するだろう。
内なる悪魔
女神崇拝の古代世界は女性を抑圧していた。今日のキリスト教が風化した西洋で女性が抑圧されているのと同じだ。
なぜ女性の力を持つ女神、カリまたはシャクティは、「サティ」(妻が夫の死後殉死する風習)のため、十代の未亡人を焼くヒンドゥー教のインドに、女性解放運動を吹き込まなかったのか?
なぜ女神崇拝のインドの女性は今日、中絶や生まれる前、または生まれたての女の子を殺すのか?悲しいことに、インドのいくつかの地方では男女比が1000対800に達している。
疑問は、なぜ男性も女性も女性を抑圧するのかということだ。
それは我々が神と女神だからか?
あるいは我々が“罪人”(良いものとして創造されたが悪くなった)だからか?
私が6歳か7歳のとき、水栗を盗んだ。問い詰められて私は友達が池から取ったのを私にくれたと言った。私の話に父は納得しなかったし、がっかりした。父は私に正直でいて欲しかったのだ。
失望した父はその友達のところか池に連れて行くように私に言った。私は父があきらめるのを願って一時間以上も歩かせた。父は私が真実を告白し許しを請うのを願って歩き続けた。
父の訓戒、忍耐、不満、怒り、愛、しつけは私の助けにはならなかった。私はかたくなさだけを学んだ。私が十代になるころには嘘と盗みが習慣になっていた。何が、そして誰が私を自分の罪から救ってくれたのか?
ダン・ブラウンは私には女神とのセックスが必要だと言っている。快楽の絶頂を私が経験しなければならない“祈り”だといっている。聖書は我々の問題は罪の性質だと教えている。我々は良いものとして創られたが罪人になってしまった。
それゆえ我々は救い主−我々の罪を赦し罪の力とその結果から救い出してくれる存在が必要なのだ。
一方、神秘主義は我々の問題は罪ではなく、我々が自分の神性について無知であることだと教える。神秘主義は我々は神だという。
しかし我々は、自分のことを有限なもの(たとえば女性でなくて男性、あるいはその逆)と認識する低い理性のレベルに住み始めたものだと。神秘主義は我々の意識を、我々の女性性(または男性性)との一体感へ引き上げようとする試みだ。それは、すなわち彼らが呼ぶところの「神性」への到達であり、理性的ではない無秩序な経験主義へと引き上げようとする試みなのだ。
津波となりうる危険
先の世代の性革命は西洋の家族の基礎を単に震わせただけだった。それに比べて、ブラウンの神秘主義は津波だ。それは海岸を越えて西洋文化の中心まで行く。それは西洋の進み続けている知的、文化的堕落をまったく新しい深さへと導く。
たとえばローマカトリック教会はより透明になることによってより強くなることができる。しかしどのようにして透明な社会を造るのか?
プロテスタント運動は書かれた言葉―すべての人に開かれていて、手に入れられる客観的な文書―の権威に人間の力を服従させることにより西洋の透明な文化を築いた。
プロテスタント改革の先駆者たちは大学教授たちだった―彼らはローマカトリックの権威によって聖書を信じたのではない。
彼らはイエスが人としてはユダヤ人として生き、聖書に従って人の罪のために死に、聖書が預言したとおりに三日目に復活したのだという「福音」を信じる信仰によって、すべてを聖書に服従させた。
それとは対照的に、ブラウンの神秘主義はすべての言葉―聖書の言葉、信条、契約、あるいは憲法だろうと―その権威を破壊し、書かれた言葉を、秘密結社の隠された権威と置き換えている。
ブラウンの小説は、彼を、ハーバードとオックスフォードの権威のもとに、根拠のない言葉を売る新異教の祭司にした。しかし彼の教えに従うことによって、我々は個人として、神と女神と呼ばれる当惑した売春婦になるだけだ。
それは西洋をある種の苦しい束縛に導くだろう。私の国インドでは良く似た哲学で数千年もの間束縛されてきたのだから。
Profile--------- ヴィシャル・マンガルワディ 法学博士
Christian Today誌によればインドの最も重要なクリスチャン知識人。インドで生まれ育った。
彼は大学やヒンズー教のアシュラムやフランシス・シェーファーのラブリ・フェローシップで哲学を学んだ。1976年に彼の妻ルツと共に田舎の貧しい人々に仕えるためのコミュニティを創立した。
ヴィシャルは29カ国で講演を行い、13冊の本を執筆している。その中にはインドと文化の変革の模範、となった、"ウイリアム・ケアリの遺産"が含まれている。それは大きな試みとして知られている。 |
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